長尾政景公を謀殺したのは誰か?③

前にも少し触れましたが『古城微考』という古文書に銭淵についての記述があります。

そこには下平修理(吉長)という人物が出てきます。この人は上田の庄の隣の妻有庄(現在の十日町市一帯)千手城主でした。

しかし領地を巡り、隣境の上野家成と度々争うことがあり、その争いを有利に進め領地拡大を目指し、政景の配下になります。

実はこの下平修理の父親、次郎太郎は、天文の乱において坂戸城主の長尾房長(政景の父)攻撃に参加し、討ち取られている。五十沢口から坂戸城を攻め、敗死したと伝わっています。

坂戸城及び上田長尾家は修理にとって少なからず怨恨があったことは確かなようです。
ということを前置きに下の『古城微考』にある記述をご覧あれ。

銭淵

魚沼郡上田庄坂戸古城の山麓に在り 昔時は野田尻の淵と言う。

永禄年中の夏 政景公は妻有の下平修理と鮎の川狩りを興行して船中に酒宴す。

如何なる故に哉 論争に及び相討して、御死去し所なり 政景公に従士少しく御共死せり 御家中の国分売間の先祖となりと伝う。

政景公は龍言寺に、修理は妻有の長福寺にに葬る。 

其の後水荒れて淵に怪異なる事もあり。

両寺この所において大般若を執行す 里人男女群集して淵に六文銭を奉賽す。

例年七月この事あり。

景勝公国替えまで続く。

今に及んで浅瀬に銭出る。

里人銭淵と称す龍言寺は上田より移り来てご城下(米沢)にあり。

長福寺は越後の妻有にあり。

(古城微考より)

政景は野田尻にて酒を呑んでの川遊び中に家臣の下平修理と口論になり、組み合っている内に船から落ちて二人とも死んだというこでしょうか。

政景は龍言時に修理は長福寺に葬られました。その供養として6文銭を淵に奉賽するようになった。

よって「銭淵」と呼ばれるようになったのではないか…。話が繋がります。

(長女が2歳くらいかなぁ…銭淵公園にて。後ろに見えるのが銭淵。ナンマイダ―)

この書は、江戸の始め米沢に移って書かれたもののよう。政景が1564年に亡くなっているので、この事件の40年ほど後に書かれたものと推測されます。

著者は不明ですがその記述には信憑性があり、人名、地名、寺社名にも怪しいところはみられません。

以上のことを踏まえ、永い間「宇佐美定満、長野・野尻湖」説が有力でしたが、こちらの「下平修理・坂戸野田尻(銭淵)」説がとって代わり、新しい歴史の1ページが塗り替えられる…。

なんてことも。

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