坂戸城らしい地名が初めて文章に出てくるのは『〇〇記』

南魚沼市図書館で坂戸山についてのいかした資料を発見できたのでまとまてみます。
 
最初に「新田氏が坂戸山を初めて山城として築いた」と書きましたが、その辺りをもう少し詳しく…。
 
坂戸城らしい地名が初めて文章に出てくるのは『太平記』(1333)。
 
新田氏が北条氏に攻められる、という話のくだりに出てきます。
 
これを聞いた新田氏が一族を集めてどう対処するか評議する場面に「上田山ヲ刈塞ギ」という一文が出てきます。
 
この「上田山」というのが坂戸山だと考えられています。
 

一般的には鎌倉時代の後で、元弘の変や建武の新政も南北朝時代の事件として含まれる。

正確には、1336年(延元元年/建武3年)に足利尊氏による光明天皇の践祚、後醍醐天皇の吉野転居により朝廷が分裂してから、1392年(元中9年/明徳3年)に皇室が合一するまでの時代を指す。

これは室町時代の初期に当たる。

この時代の朝廷には、南朝(大和国吉野行宮)と北朝(山城国平安京)に2つの朝廷が存在する。

それぞれ正統性を主張した。

wekipediaより

新田氏は南朝方として魚沼地方にたくさんの城砦を築き、南朝方として最後まで抗戦します。

1368年最後の兵を挙げ敗退する。

この新田一族を徹底的に追討したのが、北朝方についていた上杉氏とその家臣である長尾氏だったのです。

 

元々、鎌倉に拠点があった上杉氏が征服軍として魚沼地方に入り、その後魚沼地方一体を統治してくことになりました。

このように異なった特殊な条件のもとでの統治であるので、魚沼の新しい武士たちの団結は強く、越後の中では特別な存在となり、約200年後の長尾政景(景勝の父)時代には上田衆と呼ばれ一目を置かれるようになりました。

参考文献:図説中世の越後―春日山城と上杉番城

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