上杉謙信が亡くなり御館の乱に至るまでの景勝と景虎の動きについて

1578年3月、謙信死後いち早く動いたのは景勝

春日山城の本丸「実城」を占拠しました。

謙信の死後9日後のこと。

謙信は「御実城様」と呼ばれていたように、実城に住むことは越後国主の象徴でした。

そこで景勝は自分の居住区である中城から実城に移り、自らが謙信の後継者であることを宣言したのでした。

また、それにともなって景勝は、謙信が春日山城に蓄えていた「金蔵」の黄金3万両(現在の約7億円程度)と「兵器蔵」の武器も手中にしました。

さらに景勝は自らが謙信の正当な後継者である、と近隣の大名達や越後内の武将たちに一斉に報じその正当性を主張しはじめるようになります。

そんなこともあり景虎は実城は乗っ取られたものの、すぐに春日山城から撤退したとなると、景勝の後継を認めたことになってしまいますので春日山内の自分の陣地で籠城。

なんと2ヶ月の間、景虎方は景勝方の攻撃に耐え続けました。

と、こんな感じで景勝側が一方的に春日山城を乗っ取り、景虎を追い出したように歴史は紡がれています。

天地人でもブッキー聡が北村景勝に「殿!本丸と金蔵をいち早く押さえましょう!!」というシーンがありましたね。

実はそうでななかったのではないか…という説も

景虎と景勝は謙信死去と同時に手切れとなり、すぐに戦闘状態に発展したようにみられがちだが、実は共に葬送の儀を執り行っているという資料も。

謙信の亡骸が入った棺を景虎、景勝が左右から守衛したとのこと。

そして、景虎が御館に入ったのは謙信の死後2ヶ月後という事実も捨て置けません。

その間に春日山城で何が起こったのか…。

景虎と景勝の間に何が起こったのか…。

 

参考文献

関東戦国史と御館の乱 ~上杉景虎・敗北の歴史的意味とは? (歴史新書y) 守りの名将・上杉景勝の戦歴 (新書y)

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