【坂戸山と御館の乱】坂戸勢が起死回生をかけて待っていたモノとは…
歴史上、坂戸城(坂戸山)を舞台に、いくつかの合戦が行われました。
その中でも一番激しかった戦いが、かの有名な「御館の乱(おたてのらん)」です。
上越の春日山城・御館城をメインに行われた戦ですが戦乱は越後全体に広がり、ここ南魚沼地域でも繰り広げられました。
この記事のもくじ
御館の乱とは
越後の龍・謙信には実のこどもはなく後継者として迎えていたのが坂戸城下で生まれ育った謙信の姉の仙桃院(せんとういん)の子である景勝と、関東の北条氏から養子に出された景虎でした。
1578年、謙信が亡くなって間もなく、この二人の間で謙信の後継者争いである御館の乱が始まりました。
両者の支持層は複雑に入り組んでおり、しかも勢力は五分五分、越後真っ二つ。
景虎の実家である北条勢は関東から三国峠や清水峠を越え越後に侵攻し景虎に加勢しようと企てていました。
それを予測した景勝は関東との交通の要所である峠周辺の兵を増やし、北条勢の越後侵攻を食い止めようと試みました。
が、その戦いの中で樺野沢城(塩沢・樺野沢)は、あっという間に北条勢に攻略されてしまいます。
危うし!坂戸城
次のターゲットは樺野沢城から8㌔ほどしか離れていない我らが坂戸城でした。
この時の北条の兵は5千ほどだったと言われています。対する坂戸城の兵力はその1/10程度の5百程度。
圧倒的な数の不利を察知し坂戸勢は山城に籠城する形で応戦します。
文字通り土壇場にあった坂戸勢は防戦一方。ついに居住区である下屋敷一帯に火をかけ、敵に利用されるのを防ぎながら山へと退きました。
今は「御居間屋敷(おんまやしき)」と呼ばれている中屋敷の周辺や、その上部の中腹あたりでは激しい戦闘が行われました。
坂戸勢が待っていたモノとは……
しかし坂戸勢の地の利を活かした山岳戦ということもあり北条勢は攻めきれずにいました。
この時、坂戸勢は戦況を一発逆転!!くつがえすであろう、ある「モノ」を今か今かと待ちわびていました。
なんだかわかりますか?みなさんも未だに苦しめられているアレです。
…そう、雪です。
雪と言っても、そんじょそこらの雪ではなく、あなたもよくご存知の南魚沼の豪雪です。
この時点で季節は11月の中頃、関東の北条勢が馬も使えない慣れない冬の戦に弱いことを坂戸勢はよく知っていました。
このあと冬将軍の到来と共に一気に情勢は景勝側に傾きます。
年が明け2月の頃、坂戸勢が樺野沢城に総攻撃をかけて城を奪取しました。
御館城、落城
関東へ引き上げた北条勢が雪に阻まれて越後へ攻め込めない間に、この戦いの決着をつけたかった景勝にとっては嬉しい知らせでした。
この一報を受け、景勝は御館城に猛攻撃を加えます。
かくして3月17日の総攻撃で御館城はついに落城。
景虎は北条氏のもとへ戻ろうとしましたが、逃げ切れず自刃します。
越後一国を巻き込んだ御館の乱も、これで幕が引かれることになりました。
参考文献「魚野川物語」昭和60年