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長尾政景公を謀殺したのは誰か?犯人はまさかのあの武将!?徹底検証してみた

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各文献ごとの政景公の死についての記述についての考察。

 

①上杉景勝公御年譜 巻一

この文献には「上田野尻の池にて残暑を除かんため舟遊びを催され溺死し玉う」とあるそうですが、この文献はほとんど参考にならない文献だそうです。

当時の通念上として、内部の人間が秘匿する不審死に関しては「入水」や「溺死」などの表現が使われているのことがある…なんて話もあったりなかったり…。

宇佐美説にしろ下平説にしろ結局のところ内輪揉めですから、公式文献には記述しづらかったのではないかと…勝手に想像。

 

 

②北越軍記 巻之4中 宇佐美定祐著

「7月5日、宇佐美舟遊び川狩りを興行し、政景同舟にて籾ケ崎より野尻の池に出る、兼ねて船底に穴を明け栓を挿しおき、池の中にて栓を抜くに付、水たちまちに沸き入り船沈み政景を定満とらい、ともに水中に死す」とあるそうです。

が、しかし北越軍記の著者、宇佐美定祐は定満の末裔とも伝えられています。当時、軍記物に代わる資料が乏しく定祐の編纂刊行も大いに歓迎され、のちに学者や歴史家に他の軍記物とともに引用されたとのこと。

それにより政景公の死は宇佐美定満の『義による謀殺説※』として語り継がれてきました。

※政景が謙信への謀反を起こそうとしているのを『義』の精神をもって、命にかえて止めさせた定満。定祐が自分の祖先を英雄化するための捏造だったのではなかったか…という話も。

それに「越後軍記」には永禄7年に宇佐美定満は病死した。という記述も見られます。やはり定祐の捏造の線が色濃い。ということで宇佐美定満実行犯説は、どうも怪しい。

 

 

先日、南魚沼市市民会館にて上田史談会主催の「長尾政景の死の謎を検証する」という催しに参加してきました。

会場は地元の歴史野郎に歴史淑女たちでごった返していました。

なぜかお茶とおやつも用意されていて和やかな中、史談会会長の大嶋さんからのお話が始まりました。

まず一般的な政景の死因について…
①舟遊び中に泥酔し池に落ちて死ぬ
②宇佐美定満という家臣が政景抹殺のために道連れの溺死
③下平修理という家臣に怨恨により殺された
④元々は敵対していた謙信に謀殺された など

いずれも船に乗っていて溺死するというところは一致しています。
亡くなった場所についても諸説あります。

A・南魚沼市六日町の銭淵(野田尻淵)
B・長野県信濃町にある野尻湖

歴史はもちろん闇の中…ですが、それでは面白くありません。

長い間、①や②の死因、亡くなった場所についてはBの説が有力だったようです。
が研究が進んできて色んな資料が新たに見つかったそうです。

そのひとつが「古城微考」。著者は不明。その中に…

魚沼郡上田庄 坂戸古城の山麓に在り昔時は 野田尻乃淵 と云う 永禄年中の夏政景公妻有の下平修理吉長と鮎の川狩りを興行して船中にて酒宴す 如何なる故に哉 論争に及び 相対して御死去せし所なり 政景公の従士少しく御供死せり

とあります。

要するに…野田尻淵(銭淵)で政景と下平修理が酒を呑みながら鮎釣りをして、そのうち口論になり揉みあっている際に船から転落し溺死した…ということのようです。

③の下平修理説が急浮上!!というようなお話がありました。

 

前にも少し触れましたが『古城微考』という古文書に銭淵についての記述があります。

そこには下平修理(吉長)という人物が出てきます。この人は上田の庄の隣の妻有庄(現在の十日町市一帯)千手城主でした。

しかし領地を巡り、隣境の上野家成と度々争うことがあり、その争いを有利に進め領地拡大を目指し、政景の配下になります。

実はこの下平修理の父親、次郎太郎は、天文の乱において坂戸城主の長尾房長(政景の父)攻撃に参加し、討ち取られている。五十沢口から坂戸城を攻め、敗死したと伝わっています。

坂戸城及び上田長尾家は修理にとって少なからず怨恨があったことは確かなようです。
ということを前置きに下の『古城微考』にある記述をご覧あれ。

銭淵

魚沼郡上田庄坂戸古城の山麓に在り 昔時は野田尻の淵と言う。

永禄年中の夏 政景公は妻有の下平修理と鮎の川狩りを興行して船中に酒宴す。

如何なる故に哉 論争に及び相討して、御死去し所なり 政景公に従士少しく御共死せり 御家中の国分売間の先祖となりと伝う。

政景公は龍言寺に、修理は妻有の長福寺にに葬る。 

其の後水荒れて淵に怪異なる事もあり。

両寺この所において大般若を執行す 里人男女群集して淵に六文銭を奉賽す。

例年七月この事あり。

景勝公国替えまで続く。

今に及んで浅瀬に銭出る。

里人銭淵と称す龍言寺は上田より移り来てご城下(米沢)にあり。

長福寺は越後の妻有にあり。

(古城微考より)

政景は野田尻にて酒を呑んでの川遊び中に家臣の下平修理と口論になり、組み合っている内に船から落ちて二人とも死んだというこでしょうか。

政景は龍言時に修理は長福寺に葬られました。その供養として6文銭を淵に奉賽するようになった。

よって「銭淵」と呼ばれるようになったのではないか…。話が繋がります。

(長女が2歳くらいかなぁ…銭淵公園にて。後ろに見えるのが銭淵。ナンマイダ―)

この書は、江戸の始め米沢に移って書かれたもののよう。政景が1564年に亡くなっているので、この事件の40年ほど後に書かれたものと推測されます。

著者は不明ですがその記述には信憑性があり、人名、地名、寺社名にも怪しいところはみられません。

以上のことを踏まえ、永い間「宇佐美定満、長野・野尻湖」説が有力でしたが、こちらの「下平修理・坂戸野田尻(銭淵)」説がとって代わり、新しい歴史の1ページが塗り替えられる…。

なんてことも。

 

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