上杉謙信の死…景勝と景虎、実は仲が悪くなかった?御館の乱までの流れ
生涯妻も子も、もたなかった謙信は将来のことを考え3人の養子を迎えていました。
1人目は景勝、2人目は能登の畠山氏から人質として迎えた義春、そして3人目が北条から迎い入れた景虎となります。
謙信は義春には景勝の姉を嫁にやり、かつての越後の守護上杉氏の名門、上条(じょうじょう)上杉氏を相続させ上条政繁と名乗らせました。
よって自分の跡取りとは考えていなかったということがわかります。
この記事のもくじ
景勝?景虎?どちらが跡取り候補?
景勝、景虎どちらかが跡取り候補だったのでしょうが、謙信は後継者を決めないうちに1578年3月9日に突然の病に倒れます。
脳卒中ではないか…と言われていますが定かではありません。
この時、後に兼続の妻となる「おせん」が、謙信の枕元で「跡継ぎは景勝か!?景虎か!?」と呼び続けたという話が残っています。
謙信の死因
謙信の死因についてですが、脳卒中の他に胃癌説や信長による毒殺説などがあるようですが、謙信は稀にみる大酒のみ(さすが酒所の武将!)だったそうで、それが間接的な原因での病死が最も納得のいくところではないでしょうか。
一期の栄 一盃の酒
四十九年 一酔の間
生を知らず また死を知らず
歳月ただこれ 夢中のごとし(謙信の辞世の句とされているもの)
4日後、謙信は帰らぬ人となります。
もし謙信がはっきりと跡取りを指名していたなら…。
これにより越後全体、いや関東勢をも巻き込んだ『お館の乱』が勃発します。
参考資料:三池純正「守りの名将・上杉景勝」
1578年3月、謙信死後いち早く動いたのは景勝
春日山城の本丸「実城」を占拠しました。謙信の死後9日後のこと。
謙信は「御実城様」と呼ばれていたように、実城に住むことは越後国主の象徴でした。
そこで景勝は自分の居住区である中城から実城に移り、自らが謙信の後継者であることを宣言したのでした。
金蔵と武器庫を押さえる
また、それにともなって景勝は、謙信が春日山城に蓄えていた「金蔵」の黄金3万両(現在の約7億円程度)と「兵器蔵」の武器も手中にしました。
さらに景勝は自らが謙信の正当な後継者である、と近隣の大名達や越後内の武将たちに一斉に報じその正当性を主張しはじめるようになります。
そんなこともあり景虎は実城は乗っ取られたものの、すぐに春日山城から撤退したとなると、景勝の後継を認めたことになってしまいますので春日山内の自分の陣地で籠城。
なんと2ヶ月の間、景虎方は景勝方の攻撃に耐え続けました。
と、こんな感じで景勝側が一方的に春日山城を乗っ取り、景虎を追い出したように歴史は紡がれています。
天地人でもブッキー聡が北村景勝に「殿!本丸と金蔵をいち早く押さえましょう!!」というシーンがありましたね。
実はそうでななかったのではないか…という説も
景虎と景勝は謙信死去と同時に手切れとなり、すぐに戦闘状態に発展したようにみられがちだが、実は共に葬送の儀を執り行っているという資料も。
謙信の亡骸が入った棺を景虎、景勝が左右から守衛したとのこと。
そして、景虎が御館に入ったのは謙信の死後2ヶ月後という事実も捨て置けません。
その間に春日山城で何が起こったのか…。景虎と景勝の間に何が起こったのか…。
【参考文献】
関東戦国史と御館の乱 ~上杉景虎・敗北の歴史的意味とは?
守りの名将・上杉景勝のの戦歴 洋泉社 2009