上杉氏にとって上田長尾氏はどんな存在だったのか…じっくり調べてみた
長森の戦いにおいて『下剋上』を成した上田長尾氏は越後の中でも一定の独立性を保ちます。
ここでポイントなのが長尾氏は、そのルーツにより3氏に分かれます。
この辺がなかなか複雑なところです。
①府内長尾氏(上越)ー謙信
②古志長尾氏(長岡)
③上田長尾氏(南魚沼)-景勝
府内長尾氏と上田長尾氏は同じ一族ではあるが大変仲が悪かったようです。
謙信の姉(仙桃院)が上田長尾氏に嫁いだのも政略的な理由からで、府内長尾氏が上田長尾氏を警戒してのことでした。
この謙信の姉と上田長尾氏当主・長尾政景の間に生まれたのが景勝(1555年)となります。
景勝が生まれたのも何を隠そう、我らが坂戸城なのでございます。
ということで景勝は謙信の実の甥っ子になるわけです。
しかし、この政景と謙信は仲が悪くケンカが絶えません。
ゴタゴタが色々ありましたが、最後には業を煮やした謙信が坂戸城総攻撃を通告すると政景は抵抗をやめ謙信に降伏します。
当時、坂戸城周辺は「上田庄(うえだのしょう)」と呼ばれ、関東方面と越後を結ぶ交通の要所(上町に清水街道と三国街道の分岐点がありますよね)で、魚野川の水運による物資流通の拠点でもありました。
上田長尾氏は、その物資の拠点を押さえ、その財力と強兵で府内長尾氏と互角の力を持っていました。
要するに謙信も一目を置いていたのでしょう(いい意味でも悪い意味でも)。
謙信と政景
その後、政景は謙信の配下となり謙信の関東出兵の際には本拠地である春日山城の居留守を命じられたりと、大きな役割を任せられました。
が、そこには強大な力を持つ上田長尾氏を持ち上げておこうという謙信の思惑も感じられます。
1546年、政景は舟遊びをしている際、酔っぱらって池に落ち死んでしまいます。
これには謙信の謀略ではないか…との説もありますが実際のところは謎のままです。
この事件がきっかけになり、上田長尾氏の勢力は弱まってきます。
政景の死後
坂戸城主・長尾政景が事故死した後、謙信は坂戸城に側近である黒金氏を入れ上田衆の統率を計ります。
と同時に泣く子も黙る豪傑上田衆のメンバーを群馬や長野、富山などの領地に送り込み力を弱めることに成功しました。
更に政景の子、喜平次(景勝)を春日山城に引き取り上田衆に対する人質としました。
これで謙信は関東国境にある重要な拠点、坂戸城を自らの手に収めることができました。
そして、この頃謙信は景勝の他にもうひとり養子を迎えていました。
それが景虎です。
大河ドラマ「天地人」では玉山鉄二さんが演じていましたが、戦国時代きっての美男子だったそうで、その噂は遠く京にまで広がっていたそうです。
その景虎は小田原北条氏との同盟のため人質として越後にきました。
当時、武田信玄が今川家と北条家との同盟を破り、今川家駿河の領地に攻め込みました。それに怒った北条が武田方との同盟を破棄し、長年の仇敵である上杉と同盟を結ぶことになり、その人質として用意されました。
景虎という存在
そんなことから景虎は人質としてだけではなく、北条氏と上杉家の関係を取り持ち、同盟を維持するという役目もありました。
しかし、この北条との同盟は上手く機能しませんでした。
信玄の背後をつき挟み撃ちにしようという北条方の作戦でしたが、その時「越中(富山)」攻めに手を焼いていた謙信はなかなか動こうとはしませんでした。
そんな中、北条では当主が亡くなってしまい代が変わります。
謙信の態度にしびれをきらした北条方は謙信との同盟を破棄し、再度武田と同盟を組むことにしました。
上杉と北条が決裂したわけです。
本来なら、この時点で謙信は景虎を殺すか、北条方に返さなければならなかったそうですが、返すことなくそのままそばに置き続けました。
謙信が美男子好きで男色というのは有名な話ですが、そういった意味でも謙信は景虎を近くにおきたかったでしょうし、北条方としても同盟を破棄したとはいえ景虎が上杉との唯一のパイプであり、今後どうなるかわからない情勢を考えた時の大切な保険でもあったのです。