坂戸山が初めて文献に出てくるのは、あの『太平記』だって知ってた?
今日は坂戸山(坂戸山城)の成り立ちについて調べたことをお伝えします。
時は南北朝時代に遡ります。
※南北朝時代とは鎌倉時代後期~室町時代初期(1336~1392)皇室が南北に分裂した時代。
もちろん坂戸山自体はその遥か昔から存在していたわけですが、山城として築いたのは南北朝時代の初期、越後を治めていた新田氏の一族が最初のようです。
太平記とは
『太平記』(たいへいき)は、日本の古典文学作品の1つである。歴史文学に分類され、日本の歴史文学の中では最長の作品とされる[1]。
全40巻で、南北朝時代を舞台に、後醍醐天皇の即位から、鎌倉幕府の滅亡、建武の新政とその崩壊後の南北朝分裂、観応の擾乱、2代将軍足利義詮の死去と細川頼之の管領就任まで(1318年 (文保2年) – 1368年(貞治6年)頃までの約50年間)を書く軍記物語。今川家本、古活字本、西源院本などの諸種がある。「太平」とは平和を祈願する意味で付けられていると考えられており、怨霊鎮魂的な意義も指摘されている。
一般的には鎌倉時代の後で、元弘の変や建武の新政も南北朝時代の事件として含まれる。
正確には、1336年(延元元年/建武3年)に足利尊氏による光明天皇の践祚、後醍醐天皇の吉野転居により朝廷が分裂してから、1392年(元中9年/明徳3年)に皇室が合一するまでの時代を指す。
これは室町時代の初期に当たる。
この時代の朝廷には、南朝(大和国吉野行宮)と北朝(山城国平安京)に2つの朝廷が存在する。
それぞれ正統性を主張した。
wekipediaより
長尾氏の成り立ち
新田氏は南朝方として魚沼地方にたくさんの城砦を築き、南朝方として最後まで抗戦します。
1368年最後の兵を挙げ敗退する。
この新田一族を徹底的に追討したのが、北朝方についていた上杉氏とその家臣である長尾氏だったのです。
元々、鎌倉に拠点があった上杉氏が征服軍として魚沼地方に入り、その後魚沼地方一体を統治してくことになりました。
このように異なった特殊な条件のもとでの統治であるので、魚沼の新しい武士たちの団結は強く、越後の中では特別な存在となり、約200年後の長尾政景(景勝の父)時代には上田衆と呼ばれ一目を置かれるようになりました。
参考文献:図説中世の越後―春日山城と上杉番城
上田長尾氏と上杉氏
その後、上杉氏が新田氏を放逐し上杉が越後の守護(司令官)になります。
(1352~1355)上田(旧南魚沼郡のあたり)にある坂戸城に配置されたのが上杉氏の家臣の長尾氏。
「上田長尾氏」と呼ばれ上田庄を預かり関東平野を結ぶ陸上交通の抑えとして、また魚野川を利用した河川交通の要所として坂戸山は重要な役割を担うことになります。
時は過ぎ室町時代に入ります。
1512年に長尾房長(景勝の祖父)が本格的に坂戸城の築城にあたります。
1510年に「長森原の戦い」が現在の城内地域・長森のあたりで起こり内乱があったこともひとつの要因ではないかと思われます。
関東管領・上杉顕定が謙信の父である長尾為景にこの地で討たれました。
下原新田に管領塚史跡公園として残っています。
六日町方面から向かって291沿いの右手ですね。
さてここで「山城」について書いてみます。
前にも書きましたが天守閣や大きな門がある一般的にイメージされる『お城』とは全く違うものです。
山を削ったり、盛ったりして天然の要塞(専門用語では要害というらしい)を作りました。
山城に適するのは比較的低山であり遠くまで見渡せることが絶対条件となると思われます。
あんまり高すぎれば行ったり来たりが大変でしょうし、低すぎれば攻め込まれやすいし眺望が悪くなってしまいます。
そういった意味では坂戸山ほどうってつけの山はなかったのではないでしょうか?
高さも頃合いでしょうし、適度に急峻なところもあります。
夏場にあれだけ老若男女が登ってるわけですから、それほど難しい山ではありませんよね。
そして山頂から魚沼盆地が一望できます。
さらに7合目のあたりには水場もあり、いたれりつくセリーヌディオンです。
山の上に居住施設を作ることは当時の技術では難しかったと思われますので、侍たちは普段は城下で生活し有事の際に山城に立て籠もり戦に備えたそうです。
昔の人はどれくらいの時間で上まで登ったんでしょうね~?
今より道は悪いでしょうからね~。
登山靴なんてものもないんだろうし……わらじかぁ……。
いやでも昔の人の方が足腰強そうだからな~。
そんなことを考えながら坂戸山を登るのも、また一興でございます。
歴史に想いを馳せながら!